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JEANSの額装

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Lee Ridersジーンズの額装です。 殊更にヴィンテージ品ではありませんが、1970年代以降の往年のLeeブランドのテイストを残したもので、1980年代後半にLee製品が日本国内生産に変わる前の輸入品と思われます。 Leeブランドの会社はアメリカのカンザス州に1889年に設立されているので、このジーンズが生産された頃が丁度〝THE 100th ANNIVERSARY"。 ジーンズの発展の歴史を改めて眺めてみると、第二次世界大戦以前は、アメリカでの丈夫なワーキングウェアーとしての隆盛、それ以降はアメリカを中心にカジュアルなファッション性の高いウェアーとしての世界への拡散で、その世界戦略のスキル差がジーンズメーカーのその後の明暗を分けたというように感じます。jeansの潮流はそれほどに時間差なく日本に押し寄せ、本格的に定着し始めるのは戦後復興成長期の1965~1970年頃で、当時の大きな話題と言えば、東京オリンピック(東京第一回目;1964年)、大阪万国博覧会(大阪第一回目;1970年)です。 アメリカハリウッドの映画で、ジェームス・ディーンが「理由なき反抗」(1955年)・「ジャイアンツ」(1956年)で着用していたジーンズはLeeRIDERS LOT101Zでした。 私の初めてのジーンズは日本製の「BIGJOHN」=1965年からジーンズ生産を始めた日本の老舗ジーンズメーカー(岡山県倉敷市)=でしたが、当時は「ジーンズパンツ」ではなく「Gパン」と呼んでました。今は呼称としては「ジーンズ」というのがメジャーな感じですが、この「ジーンズ」という言い方はいつから始まったのか、と思い、リーバイス、リー、ラングラーの古い冊子を眺めていると、昔読んだはずなのにすっかり忘れてしまったことがたくさんありました。 ジーンズにまつわる物語性を醸し出すキャッチコピーの切り口を懐かしみつつ、少しご紹介します。昭和中期の時代が思い起こされます。 WRANGLERの1980年代の冊子から一部抜粋 ・ブルーベル社は1947年、他社がデニム製のワークウェアーであるのに対し、おしゃれな伊達男、カウボーイたちのためのウェスタンウェアーとして「WRANGLER 11MW」を製造。呼び名もデニムパンツという労働着臭を嫌い、「JEANS」という呼び名を創造し使い始め

NEW YEAR 2019

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HAPPYに向かって、一歩一歩! 皆様のご健康で有意義な楽しい毎日を願っています!

街なかのカラス!カラス対策グッズ!

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8月(2018年)上旬頃から、午前9時頃になると当工房近くの一画に「クァー、クァー」とカラスがたむろしては互いに争って、殊更に騒がしくなってしまいました。 どうやらそこにあるイチジクの木の実が目当てのようで、周辺一帯が騒がしい上に、育てられている果実の搾取は許しがたいので、対策グッズを作ることにしました。 とはいってもあまり時間もないので、ディーテールの粗さには目をつぶることとして、製作時間30分、2個完成です。一応、全天候型です。 早速、イチジクの木に設置。 周囲からはこんなもの効くの、と冷たく言われましたが・・・・・。 設置翌日:カラスの飛来なし。 設置翌々日:カラスの飛来なし。 こんなもの効くの、と言った人たちはもう何も言いません。 その後一ヶ月現在、カラスの飛来なし。 ということで、熟したイチジク、ゲットしました。

コンパクトデジタルカメラ

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スマホが今日のように高度に普及してしまうと、さすがに単体のコンパクトデジカメの活躍の場は少なくなってしまいました。 一般消費者向けの液晶モニター付デジタルカメラの記念すべき第一歩は、1995年発売のカシオ「QV-10」で、幾多のメーカーから続々と製品が登場して四半世紀、2018年5月カシオは一般消費者向けのコンパクトデジタルカメラ事業からの撤退を発表しました。 当工房に常設展示されている「QV-10」 1995年頃は、ビジュアルな画像処理に対応したパソコンシステムが登場し、インターネットが一般に普及し始めた時代で、画像処理ソフトのフォトショップもまだVer.4世代、写真はまだまだフィルム全盛でした。 改めて「QV-10」を手に取ってみると、当時の先端テクノロジーとして組み込まれたであろう液晶画面のその小ささに驚いてしまいました。 QV-10と一緒に写っているスマホは、右手前が4.6インチサイズ、左側が5.7インチサイズです。 仕様を見てみると ・撮像素子:1/5インチCCD(総画素数:25万画素) ・モニター:モニター画素数:61380画素 ・電源:単3型アルカリ電池×4/ACアダプター ・記録媒体:内蔵メモリー(16Mbitフラッシュメモリー) ・記録コマ数:96枚 記録媒体は内蔵タイプなので、データを外部に抜き出す場合は「パソコン接続キットLK-1(RS-232C用ケーブル)」が必要で、そのキットの箱には、「Windows95、WindowsNT上での動作は保証しません」と表示されており、まだまだ時代の趨勢がDOS-Vパソコンであったことが伺えます。

新春台湾茶会_無天茶坊

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台湾茶の「無天茶坊」さんでオープン記念の台湾茶会が開催されるということで参加させていただきました。 2018年1月13日14日、午前の部午後の部の計4部で、予約満席とのことでした。 私が参加したのは13日午前の部で、梨山高山茶、紅玉紅茶、阿里山水密桃(18年老茶)の3種、茶席の変わり目に二胡の生演奏、という趣向でした。 お手伝いをさせていただいた台湾民族衣装の額装品も自然な趣で壁面に収まっていてひと安心。 建物は元銀行ということもあって天井が高く、ゆったりとした空間で、今後随時イベントの企画があるようで、2月は二胡コンサート(二胡&ギター&ピアノ)だそうです。 ∞∞∞∞∞ オープン:1月18日(木) Θ無天茶坊 Θ岡山県玉野市築港1-10-10 TEL:0863-33-1155  *JR宇野駅から徒歩5分 ΘHP: http://muten.cccworks.net/ ΘFB: https://www.facebook.com/mutenchabou/ ∞∞∞∞∞ 茶席ではひとつのお茶毎で3煎(3杯)頂いたのですが、煎を増すごとに味わい深くなるものの濁りがなく、香りが豊かでした。 添えられた茶譜によると次のように説明されていました。 〇梨山高山茶 台湾を代表する最高級高山茶と評されています。標高2200mで栽培される梨山茶には、凛と華やかに立ち上がる高山の香気と余韻があり、他の追随を許さない品を持っています。 〇紅玉紅茶 ミャンマーアッサム種と台湾国内に自生していた野生種を掛け合わせて品種改良された高級台湾紅茶です。ミントのような香りと渋味のない味が特徴です。 〇阿里山水蜜桃(18年老茶) 阿里山金萱種良質な茶葉、手間をかけてじっくりと熟成しました。 18年寝かし、飲んだ瞬間まるで桃のような香りが口の内に広がります。 大変希少なお茶です。 午後の部の茶譜は次のような内容でした。 〇文山包種茶 発酵度が低く、最も緑茶に近い烏龍茶です。 この文山包種茶は、茶葉自体から花の香りを出すように作られています。(2017年コンテスト茶) 〇梨山蜜香紅茶 梨山高山茶と同じ茶葉を紅茶に仕上げました。 うんかが噛んだ茶葉を用いて作られており、茶葉のみで生み出される蜜のような香りが楽しめます。

NEW YEAR 2018

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2018年が始まりました。 日頃額装のご依頼のある品物は様々ですが、人生節目の思い出の写真、絵画や工芸などの作品、衣類、お気に入りの版画などなど、それぞれ印象深いものが多く、昨年2017年で特に印象深かったものは、台湾古来の民族衣装、そしてイタリア老舗の車メーカーの創業100年記念の往年のポスターの復刻版画でした。 台湾の民族衣装は、ジャケットと子供を背負うおいこの2点で、新規開店の台湾茶の茶坊内での展示用ですが、台湾で探し入手されたそうで、しっかりした生地に見事な刺繍が施されたものでした。内装イメージを考慮しながら、定期的な衣類メンテナンスの容易なスタイルとしました。 イタリアの復刻ポスター版画は、紙質もしっかりしたリトグラフ3点で、味があっていい感じでした。それぞれのサイズに合わせた特寸サイズ並びに耐経年劣化仕様となりました。 民族衣装、リトグラフともに歴史とアイデンティティーを彷彿とさせるものでした。 今年もいろいろな品物との出会いが楽しみです。

東京オリンピック1964~2020

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東京オリンピック・パラリンピック(2020)まであと1000日程となって、何かとオリンピックの話題の多い昨今の日本です。 東京オリンピック(1964年)当時のもので今でもあるもの、ということで、「オリンピック記念貨幣100円銀貨(1964年/昭和39年発行)」、そして当時使われていた「50円ニッケル貨幣〈有孔〉(1964年/昭和39年発行)」、そして2020年を待たずに年号が変わってしまう「平成」年の記念貨幣「天皇陛下御即位記念貨幣500円白銅貨(1990年/平成2年発行)」の3点を飾りました。 上:天皇陛下御即位記念貨幣 500円白銅貨 左下:50円ニッケル貨幣〈有孔〉 右下:オリンピック(1964年)記念貨幣 100円銀貨 東京オリンピック(1964年/昭和39年/10月10日~24日)の時、私は小学生で、競技をテレビで観ていたものの、当然ながら社会情勢的なことは理解しようがありませんが、1964年のオリンピックを振返る番組を近頃観ていると、当時の世界情勢や開催までの道のりなどなど、そうだったのかと今更ながらに思うことが少なくありません。 初めてオリンピック競技に採用された柔道の試合の無差別級で、日本の神永昭夫がオランダのアントン・ヘーシンクに押さえ込みで負けた試合は、どういう訳かはっきりと覚えています。 オリンピック終了後に制作された公式記録映画が映画館で上映され、学校推薦映画みたいな感じで、見に行ったように思います。現代であれば、オリンピック総集編というような番組がテレビ局で制作され、テレビで完結してしまうところです。 開催日10月10日は、「体育の日」として現代に受け継がれています。 東京オリンピック(1964年)記念貨幣は記念貨幣の第一号で、額面¥1000と¥100の2種類が作られました。発行枚数は¥1000銀貨=1500万+1516枚、¥100銀貨=8000万+8056枚で、当時の日本の人口は、94,302,000人(昭和35年国勢調査、総務省統計局)ですので、¥100銀貨は国民1人あたり1枚という感じです。 ¥100銀貨の図案は一般公募され、応募総数30,512点。神戸大丸デパート勤務の前島昌子さん(20歳)の作品が選ばれ、賞金は50万円でした。 この「50万円」というのは現代の価値感覚で